普賢菩薩騎象像のおはなし(諏訪市)

2018.09.30 / 地域を知る / 編集部さん

先日、仏法寺を訪問しました。

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正式な名称は「龞澤荘厳山 大虚空蔵院 仏法紹隆寺(べったくしょうごんざん だいこくうぞういん ぷっぽうしょうりゅうじ)」です。

長い名前です。
地域の人は親しみをこめて「仏法寺さん」と呼びます。

寺の伝えによると創建は806年ころ(大同年間)、今の諏訪大社上社本宮の近くにあった「神宮寺」と共に開基されたとしています。
両寺は弘法大師空海により、神宮寺が「真言宗を広める寺」、仏法寺が「真言宗を学ぶ寺」とされ、大きな役割を担ってきました。
また、仏法寺は諏訪社の社務や高島藩主の祈願所を務めるなど重要な位置を占めていたようです。
「創建時は今の足長神社の近くにあったが、足長大明神の神勅により現在の場所に移転した」という言い伝えも持ちます。

そんな諏訪の歴史の中心に近い場所にあった仏法寺。
今回、副住職のご案内で普賢堂内の仏様の拝観をさせていただけるという千載一遇の機会に恵まれ、うかがいました。

普賢堂は本堂を右に折れ、庫裏の東側にあります。
木々の陰に隠れるように、静かな場所です。
そしてその向きは諏訪大社上社本宮と向かい合うように建てられています。

内部にはかつて神宮寺にあった仏さまがご安置されています。
いくつかは玉眼を抜かれ片眼をつぶされるなど傷がつけられています。

これは明治時代初めの神仏分離令を機に起きた、廃仏毀釈運動により傷つけられた痕跡です。
上社神宮寺はこのときに廃寺、解体。
諏訪地域のあちこちに寺院に仏像などは移され、建物は移築されたりしました。

仏像のいくつかはこの仏法寺に移されました。
今日拝観する「普賢菩薩騎象像」は、そうした仏像のひとつです。

この普賢菩薩像が神宮寺から仏法寺へ移されるとき、途中で襲われて壊されたりしてはいけないと、地元の神宮寺村の人にも秘密裏に行われました。
夜中にそっと運び出し、慎重に仏法寺へ。
そして無事に仏法寺へご安置された翌朝、移されたことを公にしたそうです。

この普賢菩薩像は諏訪明神の本地仏(神の元の姿)として、つまりは「諏訪大明神」として神宮寺の普賢堂で祀られていた、いわば諏訪信仰の中枢にあったともいえる仏像です。
像は普賢菩薩が象に乗っているお姿です。
象には白の彩色の痕跡が残ります。当時は白象だったのでしょうか。
対して菩薩像は白木のままです。
副住職のご説明によりますと、「仏さまの無垢の姿」を強調するためにもともと白木のままだったのだそうです。
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この仏像は2015(平成27)年、明治の廃仏毀釈の際に破損した部分の修復のため解体修理が施されました。
そのときに合わせて行った調査の際に、像内に合計4体の小さな仏像があることがわかりました。

仏像の制作年代は菩薩像部分と象の部分で異なっていることが、かねてよりわかっていました。
象の部分が推定1292(正応5)年、諏訪氏一族の流れを組む知久氏により神宮寺の伽藍建立のころとされています。
対して、菩薩像部分は1593(文禄2)年の作であることが、菩薩像頭部より発見された2cmほどの胎内仏に「洛陽 大仏師 民部法眼 康俊」の書付により判明しました。
この年代の開きが示すこととはなんでしょうか。

菩薩像部分が制作される前、諏訪社は武田氏の大きな庇護をうけていました。
しかし織田信長の軍勢が諏訪に侵攻した1582(天正10)年3月、諏訪上社をほぼ全焼、この際に菩薩像部分も破却されたと伝わっています。

戦乱の一段落したあと、修復を担当した仏師は、なんと慶派の仏師。
仏法寺では他にも伝運慶作の不動明王立像があり、慶派との関係も大いに興味がわくところでもあります。

150年ぶりにきれいになった普賢菩薩像、予約すれば拝観が可能です。

そうそう、もうすぐイチョウも色づきます。
毎年恒例のライトアップに加え、今年は「お経のコンサート」や写経を灯籠に仕立て境内に灯すなど、温泉寺と長円寺との合同企画をなさっているそうです。
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色とりどりのお寺さん巡り、今年はひと味ちがうようですよ。
(ふり)

仏法寺さんと慶派については、こちらの記事もごらんくだいさませ(^^)

運慶たちと諏訪

 

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