寒天蔵群 (茅野市宮川)

2016.08.22 / 地域を知る / 編集部さん

先日ご紹介した上川橋の近くにあるのは宮川茅野地区。
この町には、昭和初期の建築物がたくさん。
上川橋をはじめ、大谷石を使った蔵造りの元倉庫、平屋ながら瀟洒な装飾が施された家、お茶屋の風情が感じられるような一角もあります。
一部が最近行われた区画整理で失われましたが、少し路地を入れば今もなお、その面影は残ります。

昭和初期、岡谷の製糸業の衰退と入れ替わるように、この町では寒天製造が盛んになりました。
昭和初期の商店街の様子を表した資料によると、寒天を生業にしていた店舗は110余店舗。
そのうち寒天を扱う店舗は13店舗ほど見つけられました。
作業に出稼ぎに来ていた人は農閑期に全国津々浦々から年間2000人ほどといわれ、どれほどの賑わいだったのかと思います。

茅野の寒天は棒寒天または角寒天と呼ばれ、真冬に製造されます。
テングサなどの海藻を煮て、溶けだしたものを冷やして固め、屋外の寒さで凍結と解凍を繰り返し、いわばフリーズドライにして作ります。
この作業ができるのは寒さが厳しくなる12月~2月のわずかな期間。
その原材料や製品を保管しておくには大きな収納場所がが必要でした。

寒天産業がさかんになろうとするとき、岡谷で使われなくなった大きな繭倉がいくつもこの町に移築されました。
軽い繭を収納しておく土蔵は、同じく重量の軽い寒天を収納するにもピッタリ。
そんな寒天蔵をいくつか観察してみました。

まずは、その名もズバリな「かんてんぐら
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寒天蔵としての役目を終えたところを、地元商業会のみなさんの手で平成21年に多目的ホールとして改装されました。
漆喰の壁が黒ずんでいるのは、太平洋戦争中、敵国の夜間空襲で標的にならないように黒く塗ったためといわれています。

こちらはイリイチ寒天蔵。

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画像では判りにくいですが、実は4層(つまり4階建て)です。
明治元年に川岸で繭倉として建築されたものを大正時代にここへ移築。
もともとの屋根は鉄平石葺きで非常に重量があましたが、次第に板葺きになった経緯があります。
数年前に内部を見学させてもらった時にわかったことですが、実は中の床板は非常に薄いのです。
軽い繭や寒天を収納するのにしっかりした床板は必要ありません。
歩くときしきしいう床板の上を、梁の上のしっかり下部分を伝いながら、身軽に動き回り作業する人の姿が想像できます。
この蔵の壁も、戦時中の政策の影響で黄土色で塗られていますね。
ちなみに1階から4階まで、荷を上げ下ろしするためのエレベーター、つまり滑車が付いています。

さて、もう一つ。
松木寒天蔵。
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手前には現諏訪大社への参道を示す標柱があります。
明治41年と刻まれていました。

背後の4階建ての建物が松木寒天さんの寒天蔵です。
去年まで電柱のあるあたりに、大正時代末こ路に建てられた当時の寒天組合の建物がありましたが老朽化で惜しくも解体となりました。
そして4階建ての蔵の向こうにも、2階建てのかつての銀行の倉庫(差し押さえた物を保管しておく場所だったらしい)だった土蔵がありましたが、これも解体。
所有者はなんとか残して利活用を考えていらしたようでしたが、老朽化と管理の面から断念されたようです。

この4層の土蔵にも“エレベーター”が付いていて、最上階は風通しの良く強度の高いトラス構造が用いられています。

寒天蔵、見て歩くだけでもなかなかいいカンジです。

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