横溝正史と上諏訪(諏訪市)

2017.12.25 / 地域を知る / 編集部さん

先日、こんな新聞記事が載りました。
諏訪を舞台にした横溝正史の小説が新しく発見、しかもミステリーではなく「家庭小説」なのだそうです。

DSC_4408

異色横溝作品 舞台は諏訪(2017年12月22日付け)信濃毎日新聞

横溝正史と言えば「犬神家の一族」「八つ墓村」などの探偵・金田一耕助が活躍するシリーズが有名です。
「犬神家の一族」というタイトルは知らなくても、

ホラ、あの、湖で人が逆さになって発見されるやつ。

というとピンとくる方も多いでしょう。

「犬神家の一族」は信州那須湖畔が舞台。
一代で財を成した信州財界の大物が…となると…

そうです。

横溝がこの「犬神家の一族」のモデルにしたのは諏訪湖。
そして“財界の大物”とは、製糸業で財を成した片倉財閥の片倉兼太郎。

諏訪と横溝正史は非常にかかわりが深いのです。
そんなかかわりをちょっとだけ、上諏訪の街を歩きながら巡ってみました。

東京で暮らしていた横溝は肺結核にかかっていました。
当時、療養には空気のきれいな田舎が最適とされ、諏訪地域にも結核の療養所がいくつかありました。
昭和8年、病んで執筆もままならなくなった横溝は仲間の江戸川乱歩に勧められ、同年7月長野県富士見町の富士見高原療養所(現・富士見高原病院)に療養にやってきます。
あまり乗り気でなかった横溝は、院長の正木不如丘医師に再三諭されるも、なんと3か月で(余りの退屈さに飽きたのだという説もありますが)退所、東京へ戻ってしまいました。

これを見かねた友人たちは、さらに横溝を説得。
生活費の保証をすることを条件に、昭和9年7月、横溝を再度療養へ送り出しました。
こんどは富士見でなく、正木医師の本宅がある縁で上諏訪で療養することになったのです。
診療は近くの茅野病院(現在閉院)がおこない、住居は青木医院の裏の家を借りることができました。

DSC_4405

青木医院は古くから諏訪市大手にある産婦人科医院です。(現在産科は休止中)

かつての院長・青木正博医師は、新田次郎の小説「霧の子孫たち」の登場人物で霧ヶ峰の自然保護活動に携わる青年・青山銀河のモデルにもなりました。
青木医師には新田次郎をはじめ考古学者の藤森栄一など数多くの文化人の出入りがありました。
さらに当時の上諏訪は、駅からすぐ降りて温泉があるとして、駅を中心に旅館がひしめき、非常に人気の高い観光地でありました。
そのうえ横溝がいた界隈は大きな繁華街のまっただ中で料理屋や遊郭がほど近く、横溝は退屈することなくひとの交流を大いに楽しんだことでしょう。

「青木医院の裏手」にかりたという住居がどこなのかははっきりしていませんが、今もほんの少しだけ、当時の面影が残ります。

DSC_4397

(手前から2軒目のアレだといいなあ、というのは私の妄想なのですけど。)

横溝の住んでいた近くには遊郭がありました。
もともとは高島城に使える武士の邸宅でしたが、その後地元の名士が8軒の遊郭を構えます。

DSC_4398

今はその面影がほとんどなく、大きな月ぎめ駐車場となりました。
手前の建物はかつての民営共同浴場です。
奥の建物が非常に凝っていますが、遊郭ではなかったとのことでした。

ここには「高島楼、牡丹楼、日出楼、風来楼等八軒の遊郭が聳え三階六角塔などあって異彩を放った(大手町誌)」という景色があったそうです。
東北芸術工科大学のアーカイブに上諏訪遊郭の写真を見ることができます。
上諏訪遊郭の写真はこちら
 ※著作権の都合上、リンクをはるまでといたしました。
西洋風の塔は異彩を放ち、まるでおとぎの国の景色のようです。
画像奥に見えるのは、きっと今も残るお稲荷さま。
もともとはここに住んでいた志賀氏の屋敷神ではないでしょうか。
いまも地区の人が大事におまつりしています。

DSC_4399

その後、横溝は上諏訪駅の機関庫(現・上諏訪駅の西側の一角)近くへいったん引っ越し、そこから徒歩5分くらい離れた大手2丁目へ転居します。
かつて横溝がいた界隈の景色とはきっと大きく変わったでしょうが、当時からある「ひさご旅館」の看板は残っています。

DSC_4394

細くて見通せない路地が、そそるなあ。

そんな横溝の上諏訪での療養生活は5年間に及びました。
すっかり元気をとりもどした昭和14年12月、横溝は帰京します。
諏訪での日々は「鬼火」や「犬神家の一族」、そして今回発見された「雪割草」を生みました。

「雪割草」は戎光祥出版から2018年2月刊行される予定です。
どんなふうに諏訪が描かれているのか、今からとても楽しみです。
(ふり)

この記事につけられたタグ

|