【小宮祭レポート】 法光寺の御柱祭と御開帳(諏訪市岡村)

2016.11.14 / 地域を知る / 編集部さん

諏訪地域、11月中旬になってもまだまだ御柱祭が続いています。
「ほーだなェ、あとはマキ神さまんとこだけだな」
「11月末に屋敷神さんやっておしめェ(お終い)だ」
とか、家族単位でやるような御柱祭が残っています。
いずれも華やかさは大社の御柱祭には及びませんが、誰もが柱に載ったり建御柱に加わる和気あいあいとした様子はほほえましくまたいいものです。

サテ。

タイトル見て「お寺で御柱?」とお思いの方もおられるでしょう。
神社の行事にお寺さんが…というのは何か違和感を伴う感覚をお持ちになる人も多いと思います。
しかし、日本の信仰の歴史を振り返ってみれば、神道と仏教は「神仏習合」であった期間の方が比べものにならないほど長かったのですよ。

そんなわけで、今日お伺いしたのは法光寺。
阿弥陀如来さまをご本尊とするお寺です。
正式な名称は「手長山二尊教院法光寺」といいます。

「手長山」ということは…そうです。法光寺の北側の丘にある「手長神社」の別当寺、つまり手長神社と法光寺は明治時代初め神仏分離までペアだったのです。
今日の御柱祭は、法光寺の境内にある手長神社の祠の御柱祭。
いやいや、お寺の境内に神社があるのはそう珍しいことではありません。
道を挟んでお隣の貞松院さんには御社宮司社が、少し離れた湯の脇地区の温泉寺さんにはなんと神仏分離まで諏訪大社上社本宮でご神体とされていた“お鉄塔”がご安置されていて、御柱もやるし仏式と神式(しかも上社から神職がやってきます)で奉告祭もやります。

というわけで、お寺の山門にも注連縄が架けられます。
dsc_5784

御柱の曳出しは手長神社から。
綱渡りの神事をして、高島小学校のグラウンド脇を下り、岡村地区内を通って法光寺へ曳きつけられます。
dsc_5795
「やァ、ここは一番の“難所”だで」
「ははは!こりゃあえれわ(これはたいへんだ)」
と、いともらくらく、クランクを通過。
子供たちを載せて「よいさ!よいさ!」と地区の小路をすり抜けていきます。

小路にぎっしり並んだ氏子…じゃなかった檀家のみなさんは、諏訪市内の方が多いですが中には茅野や下諏訪、富士見からのかたもおられます。
dsc_5798

柱が法光寺内に曳きつけられると、いよいよ本堂で法要が始まります。
御柱祭の時だけに御開帳する「二尊様」の厨子を開けるのです。
dsc_5809
本堂には檀家のみなさんと法光寺の小口住職、そして手長神社の宮坂宮司がそろいます。
中央手前側に聖観音菩薩の厨子、その奥、ご本尊の前に秘仏である「二尊様」の厨子。
そしてお気づきでしょうか、「手長大明神」と墨書された法光寺蔵の軸もあり、手前に祭壇がしつらえられています。

住職のあいさつの後、宮司が祝詞奏上。
宮司の笛の音に合わせて、住職が聖観音菩薩と二尊様の厨子を開扉します。
そして小口住職の読経が終わると、おもむろに冠落としと建御柱、神式と仏式で奉告祭を執り行います。
(この間、早い早い…柱は担いで移動されました。)
dsc_5820

たびたび登場する「二尊様」という仏様は法光寺の始まりに深くかかわる仏様です。
真っ赤な厨子にご安置された「二尊様」はかつて法光寺が2つの寺院であることに由来します。
もともと法光寺は、現在の茅野市上原にあり16世紀半ばの上原城下の「上原五山」(鎌倉五山になぞらえている)のうちの2つの寺「法明寺」「光明寺」が合併した寺です。
2つの寺にはそれぞれご本尊の阿弥陀如来像があり、両方とも大事にされてきました。
そして、上原城が武田信玄の侵攻にあい、上諏訪には日根野高吉がやってきて高島城築城と共に手長神社を厚く崇敬、そして城下の中心部も上諏訪に移りました。
その時に現在の手長神社の石段下あたりに手長神社の別当寺として法光寺は2体の阿弥陀如来像と一緒に移転してきました。
そして江戸時代、寛永10(1633)年の6月、ちょうど幕府からの巡検使が宿泊中に庫裏から出火し寺は全焼。
住職による決死の救出にもかかわらず2体の阿弥陀如来像は頭部を残して焼失という悲劇が起こりました。
巡検使も藩主が駆け付け救出されましたが、この火事により住職は13年間の蟄居を命ぜられるきびしい処分となり、寺は12年後、熱心な檀頭の願いにより現在地に再建されることとなりました。
dsc_5822
秘仏とされる「二尊様」のお姿。
火事に遭う前の法光寺のものはほとんど残っておらず、この「二尊様」と「聖観音菩薩像」のみ。
ほんのりと穏やかな表情を思い起こすわずかな凹凸と、お首に残る焦げ跡が火事の大きさをものがたります。
次の御開帳は平成34年の予定。
貴重な機会をお与えくださったことに感謝申し上げます。

この記事につけられたタグ

| |