遊郭の痕跡 (下諏訪町)

2016.03.13 / 地域を知る / 編集部さん

下諏訪は中山道と甲州道中の交わるところとして、そして温泉が湧き諏訪神社の門前として古くから賑わいがあったようです。
宿場には旅人の世話をする旅籠(旅館、宿屋)が建ち並び、旅人の給仕をする「飯盛女(または飯売女)」がいました。
彼女らは貧しい家から借金のカタに奉公に出されるケースも多く、中には悲惨な生涯を送った女性もいたようです。

飯盛女は明治4年に廃止され(とはいってもひっそり旅籠には存在していたようです)、その彼女たちの再就職先として明治10年に長野県議会の議決を経て明治13年に7~8軒で下諏訪遊郭が設置されました。
製糸業の好景気に合わせ、最盛期には置屋30軒、芸娼100人を数えるほどの勢いで栄えましたが、製糸業の衰退と共にその規模は縮小。
昭和32年の赤線廃止(売春防止法)により完全に廃止になりました。

今の下諏訪町内では、どこが遊郭だったのかほとんど解らない街並みになりました。

それでも町内のあちこちにはその痕跡はよく残っています。
ちょっと探しに行ってみました。

まずはココ。

鳥居の額額には「豊川稲荷社」と書かれています。
お稲荷さん、といえば商売繁盛の神様。
入り口両サイド の玉垣に注目すれば「下諏訪料藝組合」と刻まれています。
お料理屋さんと芸妓さんの組合のようです。

境内には2つの灯籠。
これも裏に回ってみれば…寄進者の銘。

 


「下諏訪藝妓置家」と置屋らしき店の名前12軒、そして最後に 「昭和12年7月23日」

と、境内を出ようとすると、玉垣の裏側ひっそりと…

「カフヱー」の文字。
遊郭が業種転換した後の店舗名によく使われていました。
この2店がどこにあったのかは全くわかりません。

サテ、中山道と国道142号線を超えた大岩不動の近くにもその痕跡はありました。

名前は真清(ますみ)神社。
真寿美楼、という遊郭が作った講がお祀りしている神社です。
こちらもお稲荷さんのようです。

傍らには「夫婦和合」「子宝祈願」の“奇石”夫婦岩。
かつては真寿美楼の中庭にあったのだそうです。

 そう…お気づきの方もいらっしゃるかと思いますが、形状がそれぞれ“アレ”なわけです。

そして、下諏訪遊郭の明確な痕跡は、お隣の諏訪市にもあります。

やはり商売繁盛の神様、お稲荷さん。
諏訪市四賀白狐の白狐稲荷は県内各地から祈願に訪れるほどの信仰を集めたお稲荷さんです。
その玉垣、社殿裏に回ってみると…

「下諏訪藝妓組合」とともに、はっきりと「下諏訪遊郭」の文字。
(さらに左隣は「当郡上諏訪村 遊郭貸座敷」と。そう、上諏訪にも遊郭があったのですよ)

なかなか実態のつかめない下諏訪遊郭、アウトラインがほの見えてきました。

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