軌道の痕跡 (茅野市)

2019.03.24 / 地域を知る / 編集部さん

茅野駅の西口と東口をつなぐルート。
今はコンコースから直結して「自由通路」がありますが…

昔むかしはこれいっぽんだけ。
ロータリーの中ほど、青い橋があります。
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跨線橋(こせんきょう)と呼ばれ、実は長く市民に親しまれています。
1931(昭和6)年の完成。
この橋ができたことにより、駅の東側も市街化が進んでいきます。
完成したころの写真がここに。
新規ドキュメント 2019-03-21 08.59.09_1
背後には跨線橋、その向こうには茅野駅ホームの橋。
上り側から下り(上諏訪駅)方向に撮ったものと思われます。
跨線橋の格子状のラティス桁はこの時からあったのですね。

…と、あれれ。
今の跨線橋、延長されてませんか??

跨線橋の上から茅野駅を見てみると、
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左側から、1番線、2番線、3番線…
あれ、いちばん右側、4番線???
ホームがないねえ。

よく見るとこの謎の線路、枕木が朽ちています。
レールもサビサビで、そういえば草ぼうぼう。
とても電車が走れる様子ではありません。

この線路はもはや使われていないのです。

この線路はかつて国鉄北山線、「諏訪鉄山鉄道」というほんの短期間だけ使われた線路の痕跡です。
北八ヶ岳の麓では鉄が取れます。
採掘は戦国時代には始まっていたようですが、昭和12年ころには本格化。
採れた鉱石は索道を使い山の麓まで、麓からはトラックで茅野駅に運ばれ、茅野駅東側に作られた専用引き込み線から、鉄道に積みかえられました。
跨線橋の幅が増設されたのはおそらくこのタイミングでしょう。

そして、太平洋戦争が激化。
鉄需要の高まりと共に輸送能力の強化のため、麓の花蒔地区から茅野駅まで鉄道が引かれることになりました。
昭和19年1月施行指示、同年10月には茅野駅~花蒔までの区間が開業・運転開始という突貫工事でした。
開業当時、田んぼのつづく風景の中、蒸気機関車が駆け抜けました。

え?どこを通ったのかって?

それは今でもしっかり跡が残っているのです。
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普段私たちがよく使っている、ホラ、「ビーナスライン」
かつての鉄山鉄道の軌道を大きくなぞるように、ビーナスラインは建設されています。

戦後、まもなく鉱山の操業は中止されました。
鉄山鉄道は地域の基幹交通としての活用が検討されましたが、折からの鋼材不足によりレールのほとんどは撤去回収され、鉄道の敷地は地元に払い下げられ、道路として活用されることになりました。
そして観光道路として昭和36年にビーナスラインの建設が開始、入れ替わるように鉄山は閉鎖となります。

茅野駅東口にはD51が展示されています。
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かつて鉄山鉄道を走ったC12系。
主に利用されたのはC12-66という蒸気機関車でしたが、東口に展示しているC12-67も66の代理として何回も鉄山鉄道を走りました。

ちりばめられた鉄山の痕跡。
蓼科の山の中でも見られますが、こんな街なかの身近な場所でも触れることができるのです。
(ふり)

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