古社と古墳と。(諏訪市)

2018.06.18 / 地域を知る / 編集部さん

先週末、信濃毎日新聞にこんな記事が掲載されました。

見事なまでに模様が刻まれたのは、刀の鍔とその付属物。
円、または「C」の字の形がびっしりと「象嵌(ぞうがん)」という手法で描かれています。

象嵌というのは、鉄の地金に小さい細い溝を掘り、糸のようにした銀をはめ込んで表面を磨くという非常に高い技術を求められる細工です。

実はこの刀の鍔、諏訪市内にある小丸山古墳という7世紀初めころの古墳の出土品。
制作されてから1,400年は経とうという古い鉄の遺物です。
この度、諏訪市教育委員会はこの刀の鍔を含む金属の出土品について、錆の除去と防腐・強化の処理をしました。

厚い錆がついた鍔は発見されてから90年以上。
これをまず、X線撮影(つまりレントゲン撮影ですな)。
この段階ではまだ象嵌があることは予見されていませんでした。
処理を進めて2回目の撮影で象嵌の存在が濃厚になり、慎重に処理を進めて…。
この見事な象嵌が明らかになりました。

また、同じ古墳から出土した4つの鈴についても、同様にクリーニングを行い、防腐・強化処理。
馬具として使われたと推定される鈴の特徴から、どうやら古墳の被葬者には金色と銀色の2セットの馬具が副葬された可能性が出てきました。

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この小丸山古墳の年代から考えると、馬は非常に貴重な存在です。
運搬・輸送だけでなく兵力としてもたいへん重んじられました。
その馬を金銀の装飾物で飾り立てることは、相当の権力の持ち主のはずです。
先に登場した象嵌の入った鍔も、そうした権力者の存在を裏付けるような遺物です。
このような見事な象嵌を施した刀を持つ頃ができる人物とはどんな人だったのでしょうか。

さらに、一緒に出土した鎧の一部は奈良県明日香村の「飛鳥寺」から出土した鎧の一部とよく似ていることもわかりました。
この古墳の被葬者がかなりの権力を持ち、中央との何らかの強いつながりがあったことをうかがわせます。
ああ、いったいどんな人だったのだろう。
妄想 …おっとっと…想像は膨らみます。

古墳のあった場所を訪ねてみました。

古墳は中央自動車道の開通により、残念ながら原型は残っていません。
かつて土地の人のマキが八幡様をお祀りしていましたが、その八幡様も移転。
マキの一族の墓所が近くにあることが往時の気配を伝えます。

古墳の場所は八ヶ岳とその裾野、もして湖盆と諏訪湖の尾尻。
山の向こうにちょこんと山頂をのぞかせる蓼科山と車山。
諏訪の平を一望に収めます。
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当時、諏訪湖は最高水位期。
つまり今までで最も大きく、その範囲は本宮前宮付近まで迫っていました。
被葬者の眼前に満々を水を湛えた諏訪湖。
この場所をどんな気持ちで選んだのでしょうか。

すぐ近くにはこちらも古社のひとつ、蓼宮(たでみや)社。
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古い時代の諏訪の神楽歌を記録したという13世紀の文書にはすでに登場し、さらに時代を上り9世紀半ば~9世紀末の編纂『日本三代実録』には“貞観八年…従四位”として、すでに蓼宮社を紹介しています。
御祭神は草奈井比売命(クサナイヒメノミコト)、女神さまです。
境内の案内板によれば、岡谷市長地の出早雄小萩神社に奉られる建御名方命(タケミナカタノミコト)の御子神・出早雄命(イズハヤオノミコト)の御子神とされています。
つまり、ここに奉られる草奈井比売命は諏訪社の主祭神の孫にあたることになります。
本当に血縁があるのかどうかは置いといて、この女神さまもある時期の諏訪地域の統治にかかわった可能性があるとみてもいいのかもしれません

古墳、古社…
何層にも重ねられた諏訪地域の歴史に躍動した人物たちの姿を想像するには、この一帯はとてもその気配が濃く、一つ知れば謎が倍増する。
そんな一帯なのです。
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小丸山古墳の出土品の公開は6月24日(日)まで。
その後は整い次第、展示品を入れ替えて少しずつ紹介していく方針だそうです。
リンク 諏訪市博物館小丸山古墳出土品 平成29年度修復完了公開展

(ふり)

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