上社神宮寺跡 (諏訪市)

2019.12.29 / 地域を知る / 編集部さん

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この年末年始、お参りに行かれる方も多いかと思います。
諏訪大社上社本宮。
全国に12000社以上あるといわれる諏訪神社の総本社で、地元だけでなく全国に熱心な崇敬者を多く持ちます。

ほんの150年ほど前まで、この本宮と一体となったお寺がすぐ隣にありました。
それは今もある法華寺と、その向こうに大伽藍を構えた「普賢神変山神宮寺」。
諏訪大社がいわゆる「神」のみを奉じるようになったのは明治時代に入ってから。
それまでは「神仏習合」の時代を1000年以上重ね、諏訪の信仰の、暮らしのかたちを作っていました。

明治時代以前の地図や屏風には、この「神宮寺」の様子がよく描かれています。

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※「御枕屏風」諏訪市博物館刊 より
「御枕屏風」(八劔神社蔵 17世紀)に描かれた「神宮寺」です。
画像左手側が本宮、大きな五重塔がはっきりと描かれます。

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※「諏訪社遊楽図屏風」 諏訪市博物館刊 上社隻第四扇より
こちらは17世紀後半の作
五重塔を見上げる人物が建物の大きさを表しています。
解体寸前に宮大工が写し取った図面から推測される高さは約30m。
現存していたら国宝になったかもしれません。

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※「諏訪藩主手元絵図」諏訪史談会刊
こちらは18世紀前半。
「神宮寺」の伽藍全体が見てとれます。
門前にもずらりと寺の建物が並びます。

跡地を訪ねてみました。

本宮の階から法華寺の前を抜け、坂を上がります。
墨縄神社を左手に階段を上がると、そこはもう、あの五重塔があったあたりです。

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実は、ここにはもう何も残っていないのです。
今立っているこの五重塔の跡地から、階段を上ったその向こうには普賢堂や鐘楼がありました。
その面影はうかがうことが困難です。

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普賢堂のあった場所には池と、六角形の灯籠の礎石が残っています。

明治時代の「神仏分離令」は、諏訪地域には廃仏毀釈の大きなうねりとなって押し寄せました。
それは他の土地に比べて、かなり徹底した動きのようだったともいわれます。
下社にあった2つの神宮寺(秋宮三精寺、春宮観照寺)は建物はほぼ焼却、跡地は住宅地になり、まるでなかったもののように姿を消しました。
上社の神宮寺は早期に解体、諏訪地域のあちこちの寺院に仏像も寺宝も建物も分けられました。

建物の一部は移築され、仏像もいくつかは信仰厚い村人たちの手で運び出されました。

例えば、普賢堂の建物の一部は、旧宮川村役場へ移築。
その後、諏訪市四賀の仏法寺へ移築され、現在も寺の門として現存しています。
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この仏法寺には、「神宮寺」の本尊もご安置されています。
諏訪明神の化身として、普賢堂で大切にされていた普賢菩薩騎象像。
近年、修復と調査を終え、予約制で公開されています。
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他にも普賢堂天井は岡谷市西堀の高円寺へ、五重塔の鉄製伏鉢のかけらは長野県宝として諏訪市博物館に、など、あちこちにわかれて神宮寺の痕跡は残されています。

今も残る「神宮寺」の遺物が一堂に集まり、その全貌をうかがう機会がいつかおとずれたらいいな、と跡地を訪問するたびに思うのです。
(ふり)

 

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